なぜ、黙秘なのか-黙秘は真実を守る

刑事弁護
投稿者
秋田真志

 最近、事件報道で「被疑者は黙秘している」という表現をよく耳にする。刑事弁護の立場から言えば、ようやく日本でも「黙秘権」の重要性が理解されるようになってきた、と思える。とは言え、黙秘権ほど重要でありながら(憲法38条から直接導かれる権利であり、刑事訴訟法311条によって具体化されている)、理解されにくく、かつ行使されにくい権利も珍しいであろう。実際、ごく数年前までは、被疑者だけではなく、弁護士の多くでさえ、黙秘権の行使は困難、というより無理であると考えており、依頼者に黙秘権行使を勧めること自体が稀だったというのが実情であろう。さらに遡れば、黙秘を勧めるような弁護活動は、真相解明を目指す捜査の妨害だとして、弁護人が露骨に非難されたこともあった(ミランダの会への攻撃)。法廷の場で、「私は依頼者に黙秘を勧めるようなことはしない」と言い放った弁護士もいた。

 きわめて奇妙なことである。憲法上の権利を行使することが非難され、権利を持つ者(被疑者・被告人)も、権利を擁護する者(弁護人)も、その行使を躊躇う。これでは、「権利」と言っても画に描いた餅にすぎない。ではなぜ、黙秘権は、行使されにくいのか。そこには、黙秘権に対するいくつもの誤解がある。

 誤解の中で、最大のものは、「黙秘をすると不利になる」というものであろう。確かに、黙秘したことによって自分の言い分を明らかにならなければ、自分にとって不利になると考えるのは、人間の心理として自然である。特に、無実を訴える立場であればあるほど、必死になって、自らの言い分を取調官に訴えたくなる。しかし、ここにこそ、大きな落とし穴がある。言い分を述べて、それが有利に作用するとすれば、それは取調官が、その言い分に対して、聞く耳を持っていることが前提である。しかし、ほぼ間違いなく、取調官は、被疑者の言い分について「聞く耳など持たない」。なぜなら取調官は、常日頃から「被疑者は嘘をつくものだ」「被疑者の言い分を信じてはいけない」と教えられ、実際にそのように信じて取調べに当たっているからである。もちろん、取調官の中に、人格見識ともに優れた方が多いことは事実である。しかし、いかに高潔な取調官であっても、捜査を担当する「被疑者は嘘をつく」というバイアスからは逃れられない。疑うことが自らの職責である彼ら/彼女らにとって、そのバイアスは一種の宿命とすら言える。特に、すでに強制捜査により、被疑者を逮捕した時点で、捜査機関は、被疑者を犯人だと断定した上で取調べを開始している。村木厚子さんは、大阪地検特捜部の取調べにおいて、遠藤裕介検事から「僕の仕事は、あなたの証言を変えさせることです」と言われ、ショックを受けたと記しているが(村木厚子「あきらめない」日経BP164)、この遠藤検事の言葉こそが、取調官の本音を示している。

 それでは、「被疑者は嘘をつくものだ」と信じている取調官に対し、黙秘権を行使せず、自分の言い分を述べたらどうなるであろうか。信じてもらえるはずだと考えて、自分の言い分を一生懸命に説明する。しかし、目の前の取調官は、一向にこちらの説明を受け止める様子はない。何を言っても、相手にすらしてもらえない。信じてもらえると思って話したことが一切信じてもらえないことは、心を萎えさせる。行き着く先は、絶望である。絶望へのあきらめから、取調官の誘導に迎合してしまうことも多い。実際、過去多くの無実の人が、この絶望から虚偽の自白に陥っている

 取調官からすれば、被疑者の弁解はあくまで「嘘」であって、信じる対象ではない。「変えさせる」(遠藤検事)ターゲットである。被害者や目撃者、共犯者らの供述が、被疑者の供述と整合しないのであれば、彼らに被疑者の供述を伝えて、これを否定する供述を確保する。取調官は他者の供述を教えることを「当てる」と表現するが、「被疑者の供述を目撃者に当てて、真偽を確認する」という名目のもとに、被疑者の知らないところで、被疑者の供述は「証拠に合わない不合理なもの」とされてしまうのである。

 さらに、被疑者が取調べで一生懸命説明しても、その内容がそのまま被疑者の供述調書となるわけではない。本来、取調べは、取調官と被疑者との問答で成り立っている。取調官の発問、誘導、時として脅し、叱責、説得など、さまざまな要素が介在する。これに対し、被疑者の側は単純に応答する訳ではない。時として、反発、抵抗、躊躇いもあれば、打算、妥協、迎合などさまざまな対応が生じうる。ところが、供述調書ではそのような多くの要素は、捨象されてしまう。取調官が被疑者の供述から得た情報を基に、被疑者に成り代わって、一人称独白型の物語調書という形に作文してしまうのである。「私は、被害者死ぬかもしれないことをわかりながら、手にしたナイフを、被害者の胸めがけて突き出したのです」といった具合である。

 このような密室取調べを利用(悪用)した数多くの取調べテクニックがある。もっとも典型的なのが、作文を利用して微妙なニュアンスを変えてしまうことである。被疑者がこれに対抗するのは、わかっていても難しい。事前に取調べが検事の作文であることを知りつつ取調べに臨んだ村木厚子さんですら、「(共犯とされる人物に)会った記憶はないが、会っていないと言いきれない」と説明したにもかかわらず「会ったことはない」と断定的に作文された調書に署名押印してしまったという(村木厚子前掲書166頁)。村木さんが何度抗議をしても、遠藤検事は、「これでいいんです。調書とはそういうものです」と言い張り、結局村木さんを押し切って、サインさせることに成功したのである。実は、ここにはいくつもの「テクニック」が隠されている。作文によるニュアンス変更のほか、「調書とはそういうものだ」という詭弁(相手の未知の土俵に引きずり込む権威(検察官という権力)と密室を利用した心理的圧力(目前の者との関係性に縛られる)などである。さらに、遠藤検事は、あえて共犯者供述と露骨に矛盾する調書とすることによって、村木さんの否認供述の信用性を低下させようとしている。証拠を独占している検察官からすれば、被疑者にわからないように、被疑者調書と証拠との矛盾を作り出すことも可能である。巧妙と言えるが、作文調書である限り、取調官にとって、このようなニュアンスのすり替えは、決して難しいことではない(取調べの可視化によって、これらのリスクは一定程度回避されるようになったが、そこには大きな限界がある。この点は、後日述べることとしたい)。

 つまり、黙秘せず、供述することは、有利になるどころか、むしろ被疑者は泥沼に陥ってしまうのである。あえて言えば、供述は弁解つぶしの対象を教えるにすぎず「敵に塩を送る」ことと同じである。

 逆に、黙秘権を行使していればどうか。取調官は、弁解つぶしのターゲットがわからない。作文もできなくなる。そのため、黙秘に直面した取調官は、強い不安を感じるものである。実際、筆者のアドバイスによって黙秘を貫いた事件の多くでは、多くの取調官が、不安に陥り、時として、被疑者を大声で罵倒して「口を割らせよう」とした。中には「とにかく何か話してくれ」などと、被疑者に懇願する取調官もいた。

 黙秘権の行使は、被疑者を不利にするものでも、決して真相解明を妨げるものでもない。

 黙秘は、真実を守り、無辜の訴えを守るのである。

 いまなお、多くの弁護士が、黙秘権行使は不利になるとの思い込みから、抜け出ていないと思われる。まず、発想を転換し、その思い込みから脱却することが必要であろう。

 黙秘をめぐる問題は多い。今後、このブログでいくつかの論点について、述べることにしたい。