なぜ、黙秘は難しいのか?-密室の心理

刑事弁護

前回の記事で、黙秘は真実を守ると書いたが、実際の取調べにおいて黙秘権を行使するのは難しい。弁護人が「あなたには、黙秘権があります」という説明をしただけでは、ほとんどの依頼者は、黙秘権を行使できないであろう。「黙秘を勧めます」とアドバイスしても、なお「依頼者が黙秘できなかった」という嘆きもよく聞く。さらに進んで弁護人が、前回の記事のように「黙秘しても不利にはならない」あるいは「黙秘した方が有利ですよ」と説明したとしよう。確かに、その説明はかなり有効である。しかし、それでもなお、直ちに依頼者が黙秘をできるとは限らない。依頼者が説明どおり納得しているとは限らないし、仮に理屈で納得したとしても、取調室で黙秘を実践できるかは別問題である。

 黙秘が難しい理由は、単に「有利・不利」といった損得だけではない。他にもいくつも理由がある。弁護人としては、依頼者にとって黙秘権行使が難しい理由を十分に分析し、理解しておくことが必要であろう。

1 黙秘権告知の実際と被疑者の理解

 まず、被疑者に対する黙秘権告知の実際を確認しておこう。

 取調官は、被疑者の取調べについて定めた刑事訴訟法198条2項は、「前項の取調(引用註:被疑者取調べのこと)に際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げなければならない」と定めているが(黙秘権の告知)、これを告げられただけで、黙秘権を行使できる被疑者はまずいないであろう。ちなみに、多くの人は「じこのいしにはんしてきょうじゅつするひつようがない」と耳で聞かされたとしても、それだけでは何のことかわからないであろう。

 さすがに、実際の実務では、このような木で鼻をくくったような教示が行われているわけではなさそうである。しかし、録音録画によって明らかになった黙秘権の告知はせいぜい次のようなものである。

取調官「あなたには黙秘権がありますから、言いたくないことは言わなくていいですから。わかりましたか?

被疑者「わかりました

 取調官から「わかりましたか?」と聞かれて、「いえ、わかりません。モクヒケンってどういうことですか?」と尋ねる被疑者はまずいないであろう。30年以上の筆者の経験でも、そのようなことを取調官に尋ねたという依頼者を知らない。ほとんどの被疑者が、「わかりました」と答えるはずである。実際、被疑者調書の中には、冒頭に「刑事さんから説明を受けて、言いたくないことは言わなくてよいという権利があることはよくわかりました」などと書かれていることも多い。しかし、「わかりました」と答える被疑者のうちに、一体どれだけの被疑者が、黙秘権の実質的な意義(その意味については後述)を正確に理解しているであろうか。仮に、取調官が次のような質問をしたらどうなるであろう。

取調官「わかったのですね。では、あなたの言葉で良いので、黙秘権がどのような権利か説明してみてください」

被疑者「え?・・・・・」

 それこそ多くの被疑者が、黙秘してしまうのではないだろうか。しかし、実際にはこのようなことは起こらない。取調官は、被疑者が黙秘権の意義をちゃんと理解しているかどうかをテストなどしないからである。実際の取調べは、被疑者が黙秘権をちゃんと理解しているかどうかにかかわらず、理解していることを前提に、着々と進められていくのである。もちろんこのような状態では、ほとんどの被疑者は、黙秘権を行使すべきかどうかの判断は困難である。しかも、取調官によっては、黙秘権の教示の後に次のように付け加えることも多い。

 取調官「でも、嘘をついて良いわけではないからね。話す以上、正直に話しなさいよ」

 確かに、黙秘権は嘘をつく権利ではないのは事実である。取調官が、このような言葉を付け加えたとしても、黙秘権の保障に直ちに反しているとは言いがたい。しかし、そこでは「黙秘」と「嘘をつく」こととの関係が明示されているわけではない。被疑者には、黙秘権行使には条件があるかのように聞こえるであろうし、何より「嘘はつくな。正直に話せ」の方が印象に残るであろう。このようなさりげないひと言であったとしても、黙秘権行使を妨げる効果は十分にある。しかも、これはあくまで、取調べ開始時のやりとりである。その後延々と続く取調べでは、取調官は黙秘権を前提とすることなどない。仮に被疑者が、黙秘権を行使しようとすれば「説得」が始まる。もはや黙秘権は風前の灯火である。

2 「説得」という名目の黙秘権侵害 

 仮に、被疑者が黙秘権の意味を理解して、行使したとしよう。しかし、取調官はまず「わかった。では、君の黙秘権を尊重して取調べをやめよう」とは言わない。例えば、次のように取調べは続く。

被疑者「黙秘します」

取調官「おう、黙秘か。誰に入れ知恵された?弁護士か?」

被疑者「……」

取調官「本当に、それでいいのか?お前にも言い分があるだろう。言い分をちゃんと言っておかないと、まずいんじゃないか?言い分もないままに起訴されるぞ。黙秘していたら、隠してるんじゃないかと思われるだろう。裁判官はどう思うかな?」

 こんなに「穏やかな(?)説得」であるとは限らない。多くの被疑者が述べるのは、「お前、弁解もようせんのか!」「弁護士のいうこと聞いとったら、後悔するぞ!」「決めるのは、弁護士やない!お前やろ!」などと罵声を浴びせられたという話である。「弁護士は金だけや。お前のことなど考えてないぞ」などと、取調官が弁護士を悪し様に言うという話は、何度も耳にした。

 このような脅迫まがいの取調べは論外としても、日本の刑事実務では、被疑者の黙秘権行使に対し、取調官が黙秘をやめるよう「説得」することは許されると思われているらしい。実際、可視化された取調べの中でも、黙秘する被疑者に対し、取調官が延々と執拗に供述を求めるシーンが残されていたりする。彼らには、黙秘権を行使する被疑者の取調べを続けることが黙秘権の侵害となるという発想はない。少なくとも、先に「穏やかな説得」と形容した取調べについては、当然に許される説得の範囲内としか思わないであろう。

 しかし、ここでの「説得」とは、要するに、被疑者にとって、黙秘することは不利であり、供述することこそが利益であると思わせることである。単に、有利・不利というだけでなく、取調官は、「供述することのメリット」と「黙秘することのデメリット」をことさらに強調する。これらの説明は、前回述べた「黙秘は、真実を守り、無辜の訴えを守る」という考え方からすれば、明らかな誤りである。そもそもその説明は、黙秘することによって不利益と扱われないという黙秘権の本質と相容れない。このように誤った説明により、黙秘権行使を断念させようとすることは許されないはずである。「説得」という名目であっても、黙秘権を侵害する違法なものと言うべきである。弁護人として依頼者に黙秘権行使を勧める以上、取調官による黙秘権不行使を勧めるあらゆる説得は黙秘権侵害であり許されない、という意識を持つことが必要である。

3 黙秘権行使を困難にする被疑者心理

 とは言え、いくら弁護人が「あらゆる説得は黙秘権侵害だ」と言ってみたところで、直ちに日本の取調べ実務が変わるわけではない。説得を違法と判断する裁判所の裁判例が定着するか、法改正でもなされない限り、彼らは「説得」をやめないであろう。弁護人の取調べ立会いが制度化されていない日本で、説得そのものを阻止することも困難である。弁護人としては、黙秘権行使を妨害する「説得」が続くことを前提に、弁護活動をしなければならない。

 弁護人としてもう一つ意識しておかなければならないことがある。被疑者心理である。理屈として「説得は誤っている」と言ってみたところで、被疑者心理としては、やはり「黙秘は不利になるのではないか」という感覚から逃れるのは難しい。理屈で理解することと、実際の心理にはギャップがある(人間は、理屈よりも感性や感情に支配されやすい)。このことは、弁護人として常に意識しておかなければならない。

 被疑者心理として弁護人にとって厄介なのは、「人間は目の前にいる人間との関係性に強く影響される」ことである。人間は、とにかく目の前にいる人間に対し、拒否的な態度を続けるのは難しい。ついつい目の前にいるセールスマンの勧誘を断れないで、不必要なものでも買ってしまうのは、その一例である。取調べで被疑者は、密室という閉ざされた空間の中で、取調官とたった1人で対峙させられる。そこでは、黙秘権行使という「拒否」を貫こうとするだけで、心理的な負担となる。再審無罪となった湖東病院事件(大津地裁令和2331日判決)は、被疑者が取調官に好意を寄せてしまったことから虚偽自白に至った事例であるが、決して特殊な例だとは言えない。目の前の取調官に影響されるのは、普遍的な人間心理である。

 被疑者心理に影響するのは、このような関係性だけではない。自分のした行動と態度を取り続けようとする心理(一貫性の原則=一旦、虚偽自白してしまうと覆せなくなる)、権威に無自覚に従おうとする心理(被疑者にとって取調官は常に権威である)なども、黙秘権行使の妨げとなる。心理学的に分析すれば、他にも黙秘権行使を困難にするさまざまな心理的要因が挙げられるであろう(ロバート・B・チャルディーニ著「影響力の武器: なぜ、人は動かされるのか」誠信書房を一読されることをお勧めしたい)。

4 黙秘権を実効あらしめるためには 

 黙秘権を実効的に行使できるようにするためには、単に黙秘権の存在や、その意味内容を伝えるだけでは不十分なのである。「黙秘した方が有利だ」と伝えても、なお黙秘権行使は容易ではない。弁護人たるもの、上記のような黙秘権告知の実際取調官の説得被疑者の心理にも十分に配慮しながら、被疑者へのアドバイスや弁護実践を重ねることが不可欠なのである。そのための弁護実践については、改めて検討することにしよう。

投稿者プロフィール

秋田真志
秋田真志
1989年大阪弁護士会登録。刑事弁護に憧れて弁護士に。WINNY事件、大阪高検公安部長事件、大阪地検特捜部犯人隠避事件、FC2事件、SBS/AHT事件、プレサンス元社長冤罪事件などにかかわる。大阪弁護士会刑事弁護委員会委員長、日弁連刑事弁護センター事務局長、委員長などを歴任。現在、SBS検証プロジェクト共同代表。