取調べの立会いをめぐる裁判所の奇妙な姿勢

刑事弁護
投稿者
秋田真志

1989年大阪弁護士会登録。刑事弁護に憧れて弁護士に。WINNY事件、大阪高検公安部長事件、大阪地検特捜部証人隠避事件、FC2事件、SBS/AHT事件、プレサンス元社長冤罪事件などにかかわる。大阪弁護士会刑事弁護委員会委員長、日弁連刑事弁護センター事務局長、委員長などを歴任。現在、SBS検証プロジェクト共同代表。

私たちが古田国賠訴訟と呼んでいる事件がある。愛知県弁護士会の古田宜行弁護士が、依頼者の在宅取調べで弁護人立会いを求めたところ、依頼者が逮捕されてしまったという事案である。後に、この依頼者は、古田弁護士の弁護活動により無罪となった。無罪確定後、古田弁護士は、逮捕状を請求した検察官の行為や逮捕状を発付した裁判官の行為によって、違法に弁護権を侵害されたとして、国賠訴訟を提起したのである(1審名古屋地裁令和3年1月28日判決、控訴審名古屋高裁令和4年1月19日判決)。この事件で、古田弁護士の依頼者は、一旦逮捕されたが、勾留請求が却下され釈放されていた。古田弁護士は、釈放後の任意取調べの際に、7回にわたり、依頼者とともに警察に出頭し、弁護人の立会いを求めた。古田弁護士はいずれの出頭の際も、立会いに備えて日程を確保していた。ところが警察官は、弁護人立会いでは取調べを実施しないとして、依頼者と古田弁護士を帰らせていたのである。すると、検察官は、再度の逮捕状を請求し、依頼者を逮捕した。その逮捕は、古田弁護士が立会いを求めたことに対する報復であり、取調べから古田弁護士を排除する目的であったことは明らかであろう。後述するが、取調べへの弁護人立会いを忌み嫌う検察官の態度は、国際的な潮流に反した時代錯誤的な態度というほかない。ところが、1審及び2審の裁判所は、その検察官の態度を追認したのである。その論理は、きわめて奇妙なものと言うほかない。名古屋高裁は次のように述べる。

「検察官の出頭要求に応じて被疑者が出頭したものの、弁護人を取り調べに立ち会わせることを求め、これを検察官が認めなかったことから、結果として被疑者の取調べを行うことができない事態が繰り返された場合に、検察官が、被疑者が正当な理由なく取調べを拒否しており、正当な理由のない不出頭を繰り返した場合に準じ、逃亡ないし罪証隠滅のおそれがあるとして逮捕の必要性があると評価することに合理的根拠がないとはいえ」ない(名古屋高裁判決11~12頁。下線は引用者)。

この一文を整理すると次のとおりとなる。

A「弁護人を取調べに立ち会わせるように求める」=B「被疑者の取調べができない」=C「正当な理由なき(つまり、不当な)取調べ拒否」=D「不当な不出頭」=E「逃亡ないし罪証隠滅のおそれがある」=F「逮捕の必要性がある」

このように並べると、A「弁護人立会いの要求」が、E「逃亡ないし罪証隠滅のおそれ」と同値とされていることが判る。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の議論であるとしか思えない。A「弁護人立会いの要求」が、いつの間にかE「逃亡ないし罪証隠滅のおそれ」、ひいてはF「逮捕の必要性」につながってしまうのである。AとE、Fがどうつながるのか、理解は困難である。その中間に介在しているB「取調べ不能」、C「取調べ拒否」、D「不出頭」や、そこで枕詞となっている「正当な理由なき」=「不当な」も同じである。いずれもA「弁護人立会いの要求」とは結びつかない。A「立会いの要求」は、B「取調べ不能」でも、C「取調べ拒否」でもD「不出頭」でもない。「不当な要求」でもない。A「弁護人立会いの要求」からF「逮捕の必要性」までには「論理の飛躍」が、何度も、何度も、積み重ねられているのである。

そもそも弁護人の取調べ立会い要求をしただけで、そのことを不当視する日本の捜査機関の態度は異常というほかない。裁判所は、そのような捜査機関の異常な態度を追認し、擁護したのであるから、やはり異常である。

国際的に見れば、取調べへの弁護人立会いは当然視されている。

アメリカでは、周知のとおり1966年のいわゆるミランダ判決において、取調べに先立ち、弁護人立会い権の告知が捜査官に義務付けられた。また、イギリスでも、冤罪事件をきっかけに、1984年の刑事手続の法制化(PACE及び運用規程)において、取調べへの立会いが整備された。

大陸法系の国々に目を転ずると、フランスでは、すでに19世紀末の1897年には、予審対象者に弁護人立会いが認められていた。1974年には、ドイツで予審が廃止され、検察官の取調べでの弁護人立会いが認められるようになった。フランス・ドイツを含むEU諸国では、2008年にヨーロッパ人権裁判所が、サルドゥズ判決において、弁護人アクセス権の保障のない自白を有罪の証拠としたことをヨーロッパ人権条約6条3項(c)(弁護人の援助を受ける権利の保障)の違反としたことが、立会権保障の大きなステップとなった。サルドゥズ判決後の2013年には、EU指令(Directive 2013/48/EU of the European Parliament and of the Council of 22 October 2013 on the right of access to a lawyer in criminal proceedings and in European arrest warrant proceedings, and on the right to have a third party informed upon deprivation of liberty and to communicate with third persons and with consular authorities while deprived of liberty.)が、弁護人アクセス権の内容として、取調べに「弁護人が立会い、かつ効果的に参加する権利」の整備を加盟国に義務づけた。これらの動きの中で、フランスでは2011年、ベルギー、オランダでは2016年、ドイツでは2017年に、それぞれ警察段階の取調べ立会いが法により明文化された。これらは、あくまで制度としての立会いである。法制化以前の実務運用として、取調べへの弁護人立会いが認められてきた国が多い。

台湾では、1982年の冤罪事件をきっかけに、弁護人の立会い制度が設けられた。

韓国では2003年に大法院、2004年に憲法裁判所で、それぞれ立会いを権利として認める決定が出され、2007年には立法により、立会い権が明文化された。

このように国際的には、弁護人立会い権の保障が、グローバル・スタンダードであることは明らかであろう。制度だけでなく、運用においても、頑なに弁護人立会いを認めようとしない日本の刑事司法は、まさにガラパゴス的状態といえる。それだけでなく、本件では、在宅事件において、弁護人の取調べ立会い要求をしたことが不当だとされ、逮捕されても仕方がないというのである。これでは刑事手続において、被疑者の最低限の権利(弁護人依頼権、黙秘権)が保障されていない国として、国際的な批判に曝されても、やむを得ないであろう。

もはやグローバル・スタンダードとなった取調べへの弁護人立会いであるが、それは、なぜ必要なのか。弁護人として取調べの実際を知る立場からすれば、その問いそのものが愚問に思えてくる。取調べの性格、そしてその実情からすれば、弁護人立会いは、当然認められるべきはずのものだからである。特に、日本の取調官の態度からすれば、その必要性は、すでに立会いが認められている諸外国より大きいことが明らかである。

取調官が、被疑者に対し、その嫌疑について問い質す取調べは、常に圧力の場として機能する。憲法38条1項は、自己負罪拒否特権を保障しているが、圧力の場に被疑者が1人で放り込まれれば、自己負罪拒否特権など風前の灯火であることは明らかである。

長らく刑事弁護にかかわってきた筆者からみれば、日本の取調官が否認する被疑者に対し、自己負罪拒否特権を無視し、捜査機関の見立てにしたがった自白を強要するのは必然である。彼ら彼女らは、ほぼ例外なく「否認する被疑者は自己の罪を逃れようと虚偽供述している」と固く信じているからである。少なくともそのように教育されている。その結果、否認する被疑者らは、捜査機関の見立てに沿った供述をするように迫られ、弁護人に対し、異口同音に「取調官は言い分を聞いてくれない」と訴えるのである。

現に、多くの冤罪事件の原因が、密室における自白強要で生まれた虚偽自白であることは、洋の東西を問わず、歴史が証明するところである。このブログで何度か触れてきたプレサンス元社長冤罪事件もその典型である。

日本の多くの取調官は、「被疑者は、自分の罪を軽くしようと、小さく供述する」と思い込んでいる。そして、被疑者に対し、少しでも重い罪状を認めさせるように供述を強要するのである。彼ら彼女らは、被疑者に重い罪状を認めさせて、反省させることが、優秀な捜査官であるかのように誤解しがちなのである。そのような取調官の誤った信念の結果、取調室での発問は、およそ法廷では考えられないような誘導、誤導、議論、作文のオンパレードである。その結果、多くの被疑者が、不本意な供述調書を作成されたと不満を持つことになるのである。取調べの可視化は、供述強要を阻止する大きな役割を果たしているが、限界があることはプレサンス事件が明らかにしたところである。自白強要を防ぐには、弁護人の立会いが必要であることは明らかである。立会いがグローバル・スタンダードとなったことは、歴史的な必然なのである。

被疑者の立場からすれば、弁護人の取調べ立会いの必要性はより明白である。取調べでは、法的な知識もなく、取調べ実務や取調官の心理も知らない被疑者が、圧倒的な権力者である取調官と対峙させられるのである。証拠は全て捜査機関側に把握されている。さらに被疑者というレッテルを貼られ、精神的にも追い詰められた局面である。取調室における取調官の態度や個々の問いかけが、相当なものかどうか、違法と言えないのかといった点を判断することなどできるはずもない。

そのような取調べの場において、被疑者は、黙秘権を行使すべきか否か、あるいは取調官の個々の質問に答えるべきか、答えるにしてもどの程度答えるべきなのか、調書の増減変更申立をすべきか、署名押印すべきか、取調官の「説得」を信じるべきかなど、様々な選択を迫られる。その選択は、単に記憶を述べるかどうかといった単純なものではない。きわめて高度な法的選択であり、法的な判断である。被疑者が、弁護人による法的援助を最も必要とするのは、この法的判断の場面である。そして、その法的援助を可能とするのは、弁護人の立会いしかない。

村木厚子氏は、取調べの立会いについて、以下のように述べたが、その必要性を端的に示していると言えるであろう。

「弁護人の立会いについてでございますが、私も取調べを20日間受けて、これは、取調べというのは、リングにアマチュアのボクサーとプロのボクサーが上がって試合をする、レフェリーもいないしセコンドも付いていないというふうな思いがいたしました。いろいろな改革の方法はあるでしょうけれども、せめてセコンドが付いていただけるということだけでも、随分まともな形になるのではないかというふうに思いますので、弁護人の立会いは大変重要だと思います。最低限というか、どんどん条件を下げてはいけませんけれども、特に切実に思ったのは、調書にサインをするときに、具体的にその調書の内容を弁護士に話して、記憶に頼らなくて物を見て話をして、この調書にサインをしていいものかどうかというのを、最低限でも相談をしたかったなというのが実感でございます。ただ、リングに上がるときにそばにいてほしいというのが更なる願いでございます。」(「検察の在り方検討会議」第6回議事録30頁)

村木氏の言葉が示すように、被疑者からすれば、取調べへの弁護人立会いは、不可欠である。グローバル・スタンダードとなってきたのは、被疑者の権利擁護という観点から、論理必然と言えるのである。

これに対し、日本の捜査機関は、弁護人の立会いを忌み嫌っている。その嫌悪ぶりは、半端ではない。まるで弁護人の立会いなど認めれば、およそ取調べは不可能になり、一切の捜査ができなくなり、真相解明が不可能となるかのような言いぶりである。単なる「立会い要求」を「不当な取調べ拒否」「出頭拒否」と同視した名古屋高裁の判決は、このような捜査機関の弁護人立会いへの嫌悪ぶりを追認し、それを擁護したものにほかならない。

時代錯誤も甚だしい。捜査機関の本音は、「弁護人に立ち会われたりすれば、自らの見立てに合う供述を得られなくなる」ということである。捜査機関の見立てに合う供述を獲得することは、それ自体、何ら真相解明ではない。単なる「仮説への固執」である。捜査機関が行うべきことは、「仮説への固執」ではない。「仮説を検証」することである。被疑者の任意の供述も踏まえた上で、自らの見立てが立証できるかどうかを冷静に検証し、立証できると判断したのであれば、公訴提起か起訴猶予かを選択し、立証が困難と判断するのであれば、公訴提起を断念すべきである。弁護人に取調べに立ち会われては、その判断ができないなどということはあり得ない。仮に、弁護人が立ち会った場合に、その判断ができないというのであれば、取調べの根本を見誤っているからである。

実際、多くの国で、取調べへの弁護人立会いが認められているが、そのことによって、捜査や訴追が不当な制約を受けたなどという評価は全く聞かれない。むしろ、弁護人が立ち会うことによって、手続の公正さが担保されることはもちろん、被疑者が供述した内容に争いがなくなるだけでなく、その正確性も増したという評価が聞かれている。

ちなみに、同様の「嫌悪」は、取調べの可視化が議論の俎上に上った際にも、捜査機関側から聞かれた。曰わく「可視化などすれば、自白が取れなくなる」、曰わく「カメラの前では誰も真実など語らない」などと、激しく抵抗したのである。取調べが可視化されれば、日本の治安が悪くなるなどという声も聞かれた。それらの言辞が、いずれも杞憂にすぎなかったことは歴史が証明している。

捜査機関は、その硬直した発想を根本から変える必要がある。彼ら彼女らからすれば、聖域というべき取調室に、弁護人という異質な者が闖入してくることなど、およそ許しがたいのであろう。しかし、その発想そのものを転換すべきである。弁護人という異質な者の監視の中でも耐えうる捜査を尽くせばよいのである。そのような発想の転換こそが、正しく人権を守り、そして捜査の技術・質を向上させるのである。

裁判所もまた、日本の硬直した捜査機関の発想を追認し、擁護しているだけでは、世界の潮流から取り残されてしまう。国際的批判を免れないであろう。そもそも古田国賠は、「取調べの立会いを要求した」だけの事案である。しかも、刑事訴訟法198条1項但書により、出頭拒否権、退去権が明文で保障された在宅事案である。立会いの中での取調べを実施しなかったのは、捜査機関であり、被疑者・弁護側の「不相当な要求」ではない。

古田国賠は、上告により、最高裁に舞台を移している。最高裁には、国際的な批判、歴史の検証に耐えうる判断が求められる。