SBS仮説は経験則か?

刑事弁護
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大作家の井上ひさし氏に、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく・・」で始まる名言があります。この冒頭部分はブログにぴったりとあてはまる名言だと思うのですが、これが私にはむずかしい。ならば絵や写真を使って視覚的に工夫しようと思っても、デジタル社会から落ちこぼれないようにするのがやっとの我が身には、これもむずかしい。そんな逡巡の気持ちを抱えながら、でも、せっかく書き連ねた文章だからと、「エイヤ!」で投稿してみました。以下、本文です。

揺さぶられっ子症候群(Shaken Baby Syndrome、SBS)で相次ぐ無罪判決
揺さぶられっ子症候群の刑事事件で最近相次いだ無罪判決に接して、多くの法律家がSBS仮説に警戒の目を向けるようになったと思う。最近は、SBSを虐待による頭部外傷という意のAHT(Abusive Head Trauma)と表現することも多いようなので、以下、SBS/AHTの語を用いる。
SBS/AHT仮説とは、急性硬膜下血腫・脳浮腫・網膜出血の三徴候が揃えば揺さぶり等の虐待行為による頭部外傷が推認されるという仮説(三徴候説)である。SBS/AHT仮説の適否をめぐっては医学専門家の間で議論が続いており、最近の検察官立証も三徴候説の単純な適用ではなく、消去法的認定や揺さぶりに特異な症状を加味する手法がとられるようになっているというが、三徴候説に依拠する検察の姿勢に揺らぎはないようである(川上博之「近時の裁判例から争点と対策を読み解く」季刊刑事弁護103号37頁以下、笹倉香奈「乳幼児揺さぶられ症候群(SBS)をめぐる議論の現在地」同53頁以下参照)。しかし、最近の相次ぐ無罪判決をみて、SBS/AHT仮説(三徴候説)は冤罪を引き起こす危険性を抱えているのではないかという深刻な疑いを、私も抱くようになった。
そういう状況があったので、刑事法ジャーナル70号(2021年)の特集企画「揺さぶられっ子症候群をめぐる裁判例の動向」に掲載された元裁判官・中谷雄二郎氏の論文「虐待による乳幼児頭部外傷(AHT)をめぐる裁判例の分析」(以下、中谷論文という)はいささかショッキングに感じられた。

中谷論文の主張とその問題点(その1)
中谷論文をショッキングに感じたのは、中谷論文がSBS/AHT仮説を、(最決平成25年10月21日刑集76巻7号755頁の)「回収措置に関する経験則」と同様に、「3徴候発生機序に関する経験則を前提とした『適用除外例を伴う経験則等』」だと明言していたからである。「3徴候発生機序に関する経験則」とは「激しく揺さぶるなどの乳幼児の頭部に強い衝撃を与える行為によって3徴候が生じうる」という「経験則」ということであり、実質は三徴候説そのものである。「経験則」に「等」の語を付しているのは、「事実認定において必ず守らなければならない規範」としての「経験則」のほか、論理則や経験則に準ずる程度に大方の支持が得られる「一般的傾向」も経験則と同等に位置づけるという趣旨のようであるが、以下に述べる経験則の「事実上の推定」機能を考えると、経験則と同等の「規範」の範囲をそのような「一般的傾向」にまで広げてよいのかという点に強い疑問が残る。また、「適用除外例を伴う」という留保も消去法的認定等を併用するということだから、「回収措置に関する経験則」に「特段の事情がない限り」という留保が付されているのと同じで、特段の意味はない。
根本的問題は、SBS/AHT仮説を「経験則等」として捉えると、三徴候の発生機序に「事実上の推定」が働いて虐待行為による頭部外傷が推認され、その結果、それ自体としては合理的疑いを超える証明が果たされていないのに虐待行為(犯罪行為)が認定されてしまうことにある(「座談会・『経験則』の使われ方と問題点」季刊刑事弁護90号12頁<高野隆発言。参照)。犯罪事実の中核部分について証拠に基づく合理的疑いを超える証明がなされていない(つまり、それ自体としては検察官の挙証責任が果たされていない)空白域を残したまま有罪認定がなされるわけであり、そこに冤罪の深刻な危険が残ることになる。これは経験則に潜む陥穽である。だから、経験則には、合理的疑いを超える証明に匹敵する証明度を担保できるだけの確たるものであることが求められる。SBS/AHT仮説についていえば、科学的実証性が前提になければならないということである。そうであるから、SBS/AHT仮説の適否に関する医学専門家の議論状況(笹倉・上記論文参照)や「SBS理論による事実認定の危うさ」(大阪高判令和元年10月25日判例時報2476号110頁)の認識を共有する一連の無罪判決(秋田真志「相次ぐSBS無罪判決が問うもの」刑事法ジャーナル70号参照)については、これを正面から受け止めて、SBS/AHT仮説の正当性・合理性に重大な疑問を投げかけるものとみなければならない。それなのに、「適用除外例を伴う」という留保をつけるにしても、SBS/AHT仮説を「事実認定の合理性の判断基準」として「経験則等」に位置づけることには、強い疑問が残る。SBS事案で相次ぐ最近の無罪事例は、むしろSBS/AHT仮説を「経験則等」と捉えてはならないという警告を発しているとみなければならないのではないか。この点で、SBS検証プロジェクトの秋田真志弁護士のブログ「ニュージャージー州で重要判断!SBS/AHT仮説を否定!科学的証拠として許容せず!」で紹介されているアメリカ合衆国のニュージャージー州上級裁判所が、本年1月7日の決定で、SBS/AHT仮説について、この仮説を検証した研究はなく、「ジャンク・サイエンスに類似して(いる)」とまで説示をしたことには特段に留意する必要があると思う。

中谷論文の主張とその問題点(その2)
もっとも、中谷論文は、三徴候の有無・程度・発生時期等の疾病診断や発生機序、あるいは「適用除外例」該当の有無について、「多重的複合的」に「専門的知見を駆使して推認していく過程」が不可欠になることを指摘して、SBS/AHT仮説を具体的事案に適用するにあたっては、SBS/AHT仮説に立つ検察官の有罪主張に対して弁護側が(専門的知見に依拠して)投げかける「推認を妨げる事情」の存在を合理的根拠をもって否定できるか否かを慎重に見極めるべきだとも主張している。中谷氏はこの慎重な見極めを「事実認定上の注意則」に位置づけている。
これは、SBS事案の相次ぐ無罪判決をみて、SBS/AHT仮説への依存が冤罪の危険を抱えていることを中谷氏も無視することができなかったからではないかと思う。その点では、中谷論文にもSBS/AHT仮説の暴走を懸念する姿勢はみられるわけである。そこには、上記の大阪高判平成元年10月25日などが、「SBS理論を単純に適用すると、極めて機械的、画一的な事実認定を招き、結論として、事実を誤認するおそれを生じかねない」と警告していたことが影響したのかもしれない。
「注意則」の観念は、誤判研究で著名なドイツの刑事訴訟法学者の故カール・ペータース(K.Peters)教授が用いたVorsichtsregelnに由来し、証拠評価(自由心証)に際して「裁判官が反省吟味すべき多少の具体性をもつ準則」と位置づけられてきた(渡部保夫『無罪の発見』1頁参照)。「注意則」は、事実認定者に対して、「経験則」のような認定基準としての規範的拘束力を持っていないのである。その意味で、中谷論文の主張は、SBS/AHT仮説を「経験則等」と捉えて虐待行為を推認させるエンジンと位置づけたうえで、その前提の下で、事実認定者(裁判官や裁判員)に対して、弁護側が専門的知見に依拠して投げかける疑問点をエンジン(推認)の暴走をチェックする自己点検項目として誠実に吟味することを求めるという論理立てとなっている。しかし、自白の信用性評価の「注意則」が裁判官による自白の信用性評価を分析的客観的に行わせ、その信用性評価を適正化する役割を果たした一方で、直観的印象的な評価手法に逆用されて安易に信用性を肯定する方向に作用したことが見過ごされてはならない(木谷明『刑事裁判の心』72頁以下参照)。「注意則」の積極的意義は決して否定してはならないが、「注意則」にはそれ自体の内に恣意的適用を防ぐ装置を備えていないという限界性があることもリアルに認識すべきである(「注意則再論」法と心理21号60頁以下参照)。そういう両義性を持つ「注意則」に頼ることで、果たして「経験則等」に位置づけられたSBS/AHT仮説の暴走を抑止することができるだろうか(門野博『刑事裁判は生きている』64頁以下参照)。先にも述べたように、SBS事案で相次ぐ最近の無罪判決は、SBS/AHT仮説を「経験則等」に位置づけ、揺さぶり等の虐待行為(犯罪行為)を推認させるエンジンとして用いること自体が冤罪の危険を招くという強い警告を発しているとみるべきである。

終わりに
かつて中谷氏は、最高裁調査官として、名張事件第5次再審請求の特別抗告審決定(最決平成9年1月28日刑集51巻1号1頁。以下、最高裁・名張決定という)についての解説をジュリスト誌に執筆された(「時の判例」ジュリスト1111号206頁)。その中で、中谷氏は、最高裁・名張決定は証拠の明白性の判断方法について「証拠構造なるものを介在させることを法は予定していない」という「新たな法律的判断を加えた」と解説された(以下、中谷解説という)。これに対して、私は、中谷解説は最高裁判例の客観的な解説の域を越えて、最高裁調査官が独自解釈により再審裁判実務を方向づけようとするものではないかと批判したことがある(拙著『刑事再審と証拠構造論の展開』148頁以下)。今回の中谷論文を読んで、私には、かつて最高裁・名張決定の中谷解説に対して抱いたのと同様の疑念が残った。